メモ

散歩が好きなのは歩くと数分後にはそこにいないから。歩けば歩く分だけちゃんと進む、自分の体がそれをできることが、地面を踏みしめられることが素直にすごいと思えるから。そこにいないこと、私がそこにもういないことがとても大事だ。そして必ず帰ってくること。自分の体で。
天気のこと。私たちが同じ市内に住んでいたとしても、こっちでは雨が降っているがそっちは晴れているかもしれない。雲は流れて風は吹いていき、たった数メートルでぜんぜん違ったりして、だから少し離れれば天気も違う。だれかと一緒にいることの尊さの理由の一つには同じ時間に同じ天気というのがあると思う。同じ天気の下で暑がったり寒がったりそれに文句をつけたり讃えたり。陽光でも大雨でもいい、それが共通の記憶になっていたことがわかったとき、本当に嬉しいと思う。
自分とうまく話ができなくて、体も心も脳もばらばらに離れていってもう一つになれる気がしない。でも一つだった時もない気もする。元からこういうものだった、と思って黄色い付箋にやらなければいけない事を並べて書いていく。todoリストなんて自分の性格には意味ないだろうとずっと思っていたが、達成できなくても頭の中が整理されていい。todoリストとか計画性とか10年後とかいう言葉が嫌いで、自分にそういう類に則って制約をかけて生活することをする人をちょっと嫌だな、と思っていたけれど、偉いしその人にとってちゃんと意味のあるものだった。規則や規律だ。そうやってみんな自分の存在を確かにしてるんだ。私にはなさすぎたことに最近やっと気がついた。でもミニマリストとだけは一生分かりあわない。体と頭と心がひとつなんかな?
最近気づいたことといえば、自分は二人称を使いすぎだ。いつも誰かを想定してしまってあなたがーきみがーあのこがーって書いてる。いつも頭のなか、空想のことは1人なのに。思うに、私が孤独だと思っているのは独りよがりという気持ちであり、独りよがりっていうのはつまり相対的に近しい他人がいるということで、私の勘違いはめっちゃ最悪だ。不幸ぶったり大袈裟にかなしがったりするのは、自分の触れてきた文化的に仕方なかったと思うんだけど、もう大人気ないかも。孤独じゃないことを認めない、孤独なふりしたほうがうんとロマンチックでかわいいと思って、だって儚いものは綺麗じゃん、ってそういう人ばっかに憧れて孤独じゃないことを認めなかった。魔女や少女や逃避行やお花、愛とか星という言葉を使って現実に潜んでる魔法めいたものが好きだ。それはとっても大切にするけれど、社会性を身につけなきゃ。なんでこんなことを思ったかというと、のら猫になったロマンチックな旅の妄想を書いていて一緒に行く相手を想定してて嫌になっちゃった。のら猫になりたいのに1人じゃないならのら猫じゃないじゃん。つまんない女のまま。
母の手は、毎日の家事によって爪や関節がいつも荒れたり切れていたけれど、手の甲はすべすべで、そこに血管が浮いていた。触るとプニプニしていて腱の上で動くくらいに太く青い血管が。時々触らせてもらっていた。女性にしては大きめの手で、その血管が走ってるのが綺麗と思っていて好きだった。今朝目覚めると、私の肘から指先にかけて血管が浮いていて網目みたいになっていた。漫画のキレた表現みたいに手がピキっていた。私の手は小さくて、指は長くないが薄い手なので長く見えて、でも節が太くてかっこいいと思う好きな体の部位で、そこに血管が浮くととんでもなく良かった。綺麗だった。一瞬体調不良かと思って検索すると、原因は老化とか痩せたとか色々あるらしいけれど遺伝するものでもあるらしい。そして母の手を思い出す。似てる!身体の中で母親譲りなところはコンプレックスばかりと思ってたけど、この手はきれい。今度母に会ったら並べて見てみよう。薄緑の柔らかい網をまとってる、でも腕を上に上げたらすぐに消えてしまった。